[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。
サンジはタバコでも吸ってから寝ようかと、しばふ甲板に出てみるとルフィがいた。
こちらから表情までは見えないが、船の縁にもたれて、ぼんやりと海を見ているようだ。
何気なくサンジはルフィに近づいた。
「ルフィ、何してんだ?」
「……うわっ! びっくりしたァ」
物凄く驚いた顔でルフィはサンジを振り返った。
「いやいや、声かけただけでビビりすぎだろ」
それに声をかけてから驚くまでに不自然な間がある。
サンジは不思議な面持ちでルフィを見た。
ルフィはそわそわしながらサンジを見ている。
「ど、どうしたんだ?」
「一服してから寝ようかと思ったら、お前を見掛けたから来てみただけだ。お前こそ何してんだよ?」
「……なんで、ずっと無言なんだ?よくわからねェけど…おれ、もう寝るな? おやすみ」
困り顔でルフィはサンジの横をすり抜ける。
ルフィは一度だけ振り返り、苦笑して、再び歩き出した。
「ずっと無言?」
男部屋に向かうルフィの後ろ姿を見ながらサンジは首を傾げる。
無言なわけがない。なぜなら話し掛けたのだから。
波や風の音で聞こえなかったのだろうか。いや、そんなわけがない。
「なんだァ?」
わけがわからないが、とりあえずサンジはタバコを吹かした。
このときの出来事がルフィに感じた初めての異変だった。
※※※
翌日、昼食を終え、のんびりと新聞を読んでいるナミの元へルフィがやってきた。
「なァ、ナミ。サンジ、怒ってると思う?」
「サンジ君? 別に普段と変わらないと思うわよ?」
突然のルフィの質問にナミは読んでいた新聞から顔を上げる。
「そ、そっか」
「どうかしたの?」
「ん? いや、なんでもない。ナミが怒ってないって思うなら、おれの勘違いだ」
ルフィは、にかっと笑ってナミの傍から離れた。
ナミは今日のことを思い返してみるが別段何も変わらない日常に思えた。
違和感といえばルフィがサンジにあまり話し掛けなかったぐらいだろうか。
しかし、さっきの態度を見れば怒っていると勘違いをして話し掛けにくかったのかもしれない。
あまり深く考えずナミは再び新聞に目を落とした。すると近くのテーブルにオレンジジュースが置かれる。
「ありがと、サンジ君」
ナミは再び顔を上げ、ジュースを置いた人物に礼を言った。
「ナミさん、ルフィどうかしたんですか?」
「あなたが怒ってると勘違いしてるみたいよ。何かしたの?」
「いえ、別に……普段と変わらないつもりなんですが」
サンジの困り顔にナミは笑う。
「あら? サンジ君ったらルフィが気になるの?」
「いえいえ、おれが気になるのはいつでもナミさんのことだけですよ」
「ロビンもでしょ? というかサンジ君は女性全般かしらね」
呆れたようにナミは笑った。
ついでに言うなら女性全般というよりは若くて可愛い、もしくはキレイな女性限定な気がする。しかし、いつものことなのでナミは気にしないことにした。
「それは否定できないですね」
笑いながらサンジはチョッパーと走り回るルフィを見る。
「やっぱり気になる?」
「いや…気になるというか…ただ、なんかいつもと違う気がして」
「…そう? 私達には変わらないからサンジ君にだけかもしれないわね」
上手く言えないがルフィはいつもと違う。強いて言うならサンジに対する態度だ。
ナミ達に普段通りならサンジにだけ違うのだろう。
「あとで話をしてみます」
「それがいいわね。ルフィも気にしてるみたいだったから。誤解が解ければ、いつも通りよ」
サンジはルフィを目で追いながらナミの言葉に頷いた。
※※※
昨日の晩と同じように一人で海を眺めるルフィを見つけ、サンジは声を掛けようとした。
しかし、サンジに気づいたルフィが先に話し出す。
「サンジ…ごめんな?」
「何がだ?」
「…おれ、サンジを怒らせたんだろ? ナミはサンジが怒ってなかって言ってたけどさ、怒ってるよな」
「何を勘違いしてんのかわかんねェけど、おれは怒ってない」
気まずそうに見上げてくるルフィの頭をサンジは、くしゃりとは撫でた。
その様子にルフィはひどく驚いてから、目を逸らし苦しそうに笑う。
「怒って…ないんだ?」
「だから、そう言ってるだろ」
なぜ、こんな苦しそうな表情をするのかわからずにサンジは心配そうにルフィを見た。
「……怒ってないなら、なんでおれにだけ喋ってくれないんだ?」
「は?」
「……ま、怒ってないならいっか。他のみんなとは、ちゃんと喋ってるもんな。気分の問題だよな」
「おい、ルフィ?」
「じゃあ、おやすみ……サンジ」
寂しそうに笑ってからルフィは男部屋に向かう。今日のルフィは振り返らなかった。
サンジは驚きすぎて引き止めることさえできない。
ルフィの言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「…あいつ、何言ってんだ?」
呆然としてサンジは呟く。
「おれの声が聞こえてない…?」
正確にはルフィに話しかけているときのサンジの声だけが聞こえていない。
他のみんなと話しているということは自分の声自体は聞こえているのだろう。ただ、サンジがルフィに対して言った言葉だけが聞こえていないということだ。
状況からして、この可能性が一番高い。
「…どういうことだ」
そういえば昨日も無言だと言われたことを思い出した。つまり、少なくとも昨日からルフィに対する自分の声は届いていないのだ。
あんなに寂しそうに笑うルフィを見たことがない。
わけのわからない不安が渦巻いた。
※※※
「眠い…でも、腹減った~」
目を擦りながら眠そうにルフィはダイニングへ入ってきた。テーブルには昼食が並んでいる。
「あんたが朝食を無視して寝続けるなんて…具合悪いの?」
「ん? ううん、大丈夫」
心配そうなナミにルフィはニコッと笑った。そして、ルフィは辺りを見回す。
「…サンジは?」
「ルフィの後ろにいるじゃない」
「っ!」
ルフィはナミのセリフに息を呑み振り返る。
サンジは驚き、ルフィを見るが目が合わなかった。そして、ルフィの表情は驚愕で彩られる。
その様子にナミは不思議そうに首を傾げた。
「ルフィ?」
「あは、あはは! 気づかなくてビックリしただけ! あ~、やっぱり調子悪いかも…サンジ、後で食べるから適当に取っといて。チョッパー、悪いけど診察してくれ」
ルフィの青ざめた顔に事の成り行きを見守っていたチョッパーは勢い良く立ち上がる。
「ルフィ、大丈夫か!?」
「ん、ただの寝不足だと思う…チョッパー、ちょっとこっち来て」
「医療室で診なくていいのか?」
「うん、風にあたりたい」
「わかった」
ルフィとチョッパーは部屋から出て行った。
「先に食べてて下さい。病人なら飯を作り直さなきゃいけないんで、様子見てきます」
サンジは胸騒ぎがして、適当な理由を口にし、二人のあとを追った。
二人は男部屋の前辺りに座り込み、丁度話始めるところだった。
「サンジのことなんだけど…」
「えっ? サンジなら…」
「しっ!」
サンジは人差し指を自分の口に当て、チョッパーを見た。
驚きつつ、チョッパーはサンジの存在を黙る。
チョッパーはすぐにサンジに気がついたがルフィは気づかない。目の前にいるのに。
「…さっきキッチンにいた?」
「いたぞ」
何なら今もチョッパーの横に座り込んでいる。
それなのにルフィは、まるで気がついていないように話す。
「……」
ルフィは言おうかどうか悩んでいるようだった。しかし、意を決したように話し出した。
「おれ、最近変なんだ」
「変?」
「うん…昨日はサンジが怒ってて、おれにだけ話さないのかと思ったけど…そうじゃなくて」
言葉を選びながら、たどたどしくルフィはチョッパーに説明する。
「昨日の夜、寝られなくてずっと考えてた…明け方には寝たけどさ。たぶん、おれだけサンジの声が聞こえないんだ」
「聞こえない?」
「昨日までは他の奴らと話してる声は聞こえてたんだけど…今日はサンジの姿が見えない…今のおれには誰かと話してるサンジの声、きっと聞こえないと思う。おれ、病気なのかな?」
震えながらルフィはうずくまる。
普段からは想像できないような怯えた姿に、チョッパーは元気付けるようにルフィの肩へ手を置いた。
「おれが絶対に治すよ! きっと一時的なものだ。すぐ見えるようになるし、声も聞こえるようになるって! だから、安心して」
「チョッパー…ありがと。無理すんなよ? ほっといても治るなら…いいんだ。みんなには内緒な? 心配かけたくねェし」
「わかった。サンジがいるときはおれがフォローするよ」
「うん、ありがと。チョッパーに話してよかった。よし、昼メシ食べよ!」
安心したようにルフィは笑って立ち上がった。
「うん! あ、おれ忘れ物したから先に食べてて? サンジはさっき展望室の方へ行ってたから心配ないよ」
「おう! わかった」
ルフィはチョッパーに笑いかけてからダイニングへ向かう。
取り残された二人は何も言うことが出来ず、しばらく無言だった。
「目の前にいる人間が認識できなくなる。そんなことがあるのか?」
「……わからない。でも、実際見えてなかった。ルフィの目の動きを見てたけど、一度もサンジの方を見てなかった」
「ウソや冗談じゃねェってことだよな」
「………うん」
サンジの言葉にチョッパーは静かに頷く。
「治るのか?」
「正直わからない。でも、治さなきゃ…ルフィがあんなに不安そうにしてるの初めてだ。おれ、新しく買った医学書を見てくる」
「飯は持って行ってやる」
「ありがとう、サンジ」
チョッパーは礼を言ったあと、すぐに駆けて行った。
「おれが…見えない?」
サンジは自分の掌を見る。もちろん、自分の手なので見えた。
ひどく不思議な感覚だ。にわかに信じがたい。
「………なんで、おれだけ」
見えなくなるんだろう。考えたところで答えなんて出ないが考えてしまう。
※※※
夜になる。二日連続でいたのだから今夜もいると思い、サンジは甲板に向かった。
サンジの予想通りルフィは海を眺めていた。とりあえず、ルフィの横へ行く。
姿も見えない、声も聞こえないのなら、どうすれば自分に気づいてもらえるのだろうか。
「っ! ……サンジ? そこにいるの?」
ルフィの頬に触れると驚いたように、こちらを見た。しかし、やはり目が合うことはない。
「チョッパーから聞いてるよな。なんか、ごめんな? 怒ってるんじゃなかったんだよな……おれが聞こえないだけだったのに」
「気にするな。お前のせいじゃない」
聞こえないとわかっていてもサンジは答えた。
ルフィがあまりにも悲しそうな顔をしているから。
「…寝るの怖いな」
ルフィは俯き、ボソリと呟いた。そして、ルフィは再び海を眺める。
「眠る度にサンジが段々わかんなくなる。ホントにごめんな」
無理して笑う姿にサンジは胸が裂けそうなほど辛くなった。いつものように笑って欲しい。
「サンジ? ホントにそこに…いる?」
不安そうな囁きにサンジは思わずルフィを抱きしめる。
ルフィは驚いたあと、安心したようにため息を吐いた。
「あはは、おれは女じゃねェぞ。透明人間に抱きしめられてるみたいで変な感じ」
「……うるせェ。いつもみたいに笑えよ。そんな悲しそうな顔するな。お前らしくもない……早く、おれを見ろよ」
聞こえていないとはわかっている。それでも、自分の声が届けばいいとサンジは思った。
「サンジの声、聞きたいな…サンジのこと見たい。なんで、サンジだけがわかんなくなったんだろ……ううん、悩むのはやめだ! チョッパーが治してくれるから大丈夫なんだ! もう、寝なきゃな~おやすみ、サンジ」
幾分、回復した笑顔でルフィはサンジの腕の中をすり抜けていく。
ルフィはサンジのいない見当違いな方向を見て笑っていた。どこにいるかわからないからだろう。
適当な方向に手を振って、ルフィは男部屋に向かった。
「バーカ…おれがいるのはそっちじゃねェよ」
サンジの呟きはルフィに届かない。
ルフィのいた場所でしばらく海を見てからサンジは男部屋に戻った。
※※※
もうすぐ次の港町に着こうかという昼前にナミはルフィを探していた。
最近のサンジに対する態度を不審に思ったナミは眠そうにダイニングで休んでいるルフィを見つける。
サンジもキッチンにいたが二人は特に会話をしているわけではなかった。
ナミはルフィにそっと声を掛ける。
「ルフィ、サンジ君と何があったか知らないけど、そろそろ仲直りしなさいよ?」
「……ナミ、誰の話してるんだ?」
「え? 誰って…サンジ君よ」
「だから『サンジ君』って誰?」
ナミは真意を確かめるようにルフィをじっと見る。
訝しげな眼差しでルフィはナミを見返した。
「朝から、みんな変だぞ? チョッパーも今朝言ってたな。でもさ『サンジ』って奴はこの船にいないじゃねェか」
どこか呆れたようなルフィの言葉にナミは目を見張る。
あまりに当たり前のように言われ、ナミは動揺して声を荒げてしまいそうだ。
「あんたこそ…あんたこそ、何言ってんの?サンジ君はキッチンにいるでしょう?」
キッチンを振り返り、再びナミを見てルフィは顔をしかめる。
「誰もいないじゃんか」
「っ…ルフィ、どうしちゃったのよ?」
「ナミこそどうしたんだよ…からかってんのか?」
ルフィは機嫌悪そうにナミを見た。しかし、ナミにはわけがわからない。
「ルフィこそ…からかわないでよ。サンジ君はいるわ」
「そんな奴いないって言ってるだろ!」
「ルフィ!」
怒ったまま部屋を飛び出してしまったルフィを呼んだが、ルフィは立ち止まらなかった。
「ナミさん、いいんですよ」
辛そうな表情でサンジはナミを見た。
「サンジ君、何が起きてるの?」
ナミはルフィの態度が冗談などでないことはわかっている。
ただ、サンジがわからないことが信じられないだけで本当は気づいていた。
このことは隠して欲しいと言っていたが、ルフィ本人がサンジのことを忘れてしまったのなら隠し通すことは不可能だ。
「自分で説明するのはキツイですね…チョッパーを呼んで来るんで、ちょっと待っててください」
「わかったわ」
呼びに行こうとすると丁度、チョッパーがダイニングへ入ってきた。
サンジはチョッパーを見て、力なく笑う。
「チョッパー、早くなんとかしてくれ…おれの方が狂っちまいそうだ」
「…うん」
「ナミさんに説明、頼んだぞ」
そう言い残し、サンジはダイニングから出て行った。
すぐにルフィを見つけてしまう。しかし、近づくことが出来ず、サンジはその場からただ眺めた。
「ウソップ、遊ぼ~」
「だー! おれは忙しいんだよ」
「ホント? つまんない…」
ルフィのむくれた表情を見て、ウソップは作業中の手を止める。
「…仕方ねェな~。ちょっと待ってろよ。これ片づけたら遊んでやるよ」
「やったー!」
いつもの笑顔だ。明るく眩しい太陽のような笑顔。しかし、その笑顔は決して自分にだけ向けられない。
それが苦しくて仕方なかった。
あんなにもルフィの笑顔が見たいと思っていたのに。
サンジはルフィの笑顔が見たかったのではなく、ルフィに笑いかけて欲しかったのだと、このとき初めて気づいた。
まるでルフィに恋をしているようだと思い、愕然とする。
「サンジ? どうかしたのか?」
工具を片づける途中にサンジを見かけて、ウソップは声を掛けてきた。
「…いや、なんでもねェ。ルフィと遊んでやれよ」
「あ、あァ」
ウソップは首を傾げながら、工具箱を持って通り過ぎる。
自分の想いにサンジは動揺してしまった。
(恋? あんなガキに? このおれが? …バカらしい。男じゃねェか)
仲間の一人が自分を認識しなくなったから心配なだけだ。
これは恋愛感情とは違う。
でも、もしも自分を認識できなくなるのが他の誰かだったらどうだっただろうか。
例えば、ゾロだったら?心配はするかもしれないが、ここまで胸が痛むものだろうか。
「ゾロ~!」
ルフィの声が聞こえて、サンジは思わずそちらに目を向ける。
アクビをしているゾロへ楽しそうに何か話しかけていた。
この苛立ちは何なのだろう。答えは簡単だ。
男相手だから認めたくなかっただけで本当はとっくに出ていた。
今更、自分に言い訳して、この感情から逃げてどうする。
(……いい加減、認めるか)
皮肉な話だが、こんな状態にならなければいつまでも自分の感情を受け入れずにいただろう。しかし、認めてしまったのなら、こんな状態が一生続くなど耐えられない。
※※※
夜になり、サンジは最近の日課になっている場所から海を眺める。
本当をいうとサンジはルフィを待っているのだ。
ルフィは毎晩、一人で海を見ていたから今日も来るとわかっている。
足音に振り向くと、そこにはルフィではなくナミがいた。
「ごめんなさい。気がつかなくて」
「ナミさん…いいんですよ。おれですら信じられないことなんですから」
申し訳なさそうなナミにサンジは苦笑する。今回の出来事は誰かが悪いというわけではない。それがわかるから余計にやるせなかった。
しばらく、話しているとルフィがやってきた。
「……ナミ、今日はごめんな?」
「ルフィ…いいのよ」
しょんぼりとしたルフィの態度にナミは苦笑した。
隣にいるサンジのことには何も触れない。やはり、見えていないのだろう。
「なんであんなにイライラしたのか自分でもわかんないんだ」
「……そう」
「でも、もしもこの船にコックがいるなら思い出してェな」
思い出したいのに思い出せない苛立ちがルフィ自身気づかないうちにあったのかもしれない。
忘れたことさえ忘れてしまうなんて悲しすぎる。
「ルフィ、クルー達の食事を作った人が誰だかわかる?」
「………わかんない」
ルフィは困ったように笑った。
サンジが関わったことは記憶からなくなってしまっているようだ。
早く思い出して欲しい。何より絶望的な表情でルフィを見ているサンジを見ていられなかった。
「…そう。忘れてしまった方と忘れられてしまった方…どちらが辛いのかしらね」
「ん?」
「ごめん。何でもないわ」
ナミは思わず出てしまった言葉を取り消すように笑う。
その様子にルフィは少し悩んでから口を開いた。
「何の話かわかんないけど、そんなの両方ツライに決まってる」
「……そうね。二人とも辛いわよね。もう寝るわ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ~」
「おやすみなさい、ナミさん」
ルフィはナミを見送ったあと船の縁にもたれて、ぼんやりと海を眺めた。
「…サン…ジ? 名前、なんだったっけ…はァ、ホントにそんな奴いるのかな」
「すぐ傍にいるだろ」
虚しくなるとわかっていても声を掛けずにはいられない。
サンジはルフィの頬に触れてみた。しかし、何の反応もなく海を眺めている。
サンジが触れているという感覚さえ忘れてしまったようだ。
これ以上は触れていられずにサンジは思わず、手を引っ込める。
忘れられることがこんなにも辛いとは思わなかった。
笑顔を向けられないのがこんなに苦しいと思わなかった。
知らない奴を呼ぶようにではなく、いつものように名前を呼ばれたい。
「……やっぱり、わかんねェな」
どんなに考えてもルフィの記憶に『サンジ』という人物はいなかった。
「…もう寝よ」
少し大きな波が船にぶつかり、海水がルフィへ掛かりそうになる。無意識にルフィはその場から飛び退けた。ルフィは自分の行動に驚く。
「なん、だ?」
まるで自分の身体ではないように海水から逃げてしまった。
確かに悪魔の実のせいでカナヅチだが飛び退けるほど波を恐れたことはない。
サンジもルフィの行動に驚いたが本人の方が驚いているようだった。
戸惑った表情のままルフィは無言で男部屋へと消えて行く。
「おやすみもなしか」
今の状況からすれば当たり前なのだがサンジには辛いことだった。
明日には全て元に戻っていたらいいのに。
※※※
「おっ、ルフィ。早いじゃねェか」
「お~ウソップ~おはよ~」
まだ眠そうにルフィはダイニングへ入ってきた。
少し時間が早いせいかまだウソップと朝食の準備をしているサンジしかいない。
「えーっと、その~思い出したか?」
「なにを~?」
「何って…サンジのことだよ」
キッチンにいるサンジに気を遣い、ウソップは向かい側に座るルフィに小声でコッソリと尋ねる。
ルフィのサンジに関する記憶が消えたことはクルー全員へ伝わっている。
チョッパーはあまりそのことに触れるなと言っていたが、元気のないサンジを見ると聞かずにはいられなかった。
「だから、なにを? 思い出さなきゃいけねェことなんてあったっけ?」
「サンジのことだ」
「ウソップ~なんか言えって~黙ってたらわかんねェだろ」
「は? だからサンジのこと………お前、もしかして聞こえてないのか?」
「ん?」
「サンジのことだ」
ルフィは首を傾げたまま、ウソップの次の言葉を待っている。
「さ、サンジ! ちょっと、こっち来てくれ!」
「何だよ…朝からうるせェな」
サンジは渋々キッチンから出てきた。
「ルフィを呼んだわけじゃねェって」
なぜか立ち上がり近づいて来たルフィにウソップは声を掛ける。
「えー? ちょっとこっち来てくれって言ったのはウソップじゃんか」
「や、やっぱそうなのか? サンジに関する『言葉』までわからなくなってんだな」
「………はァ」
サンジは力が抜けたようにウソップの横へ座り込んだ。頭が痛い。
「ルフィ…いい加減、思い出してくれよ」
ルフィの肩に触れようとした手が空を切った。
サンジとウソップは驚愕の表情でお互いを見る。
「っ!? お、おれチョッパーに言って来る!」
「な、なんだァ?」
ルフィはわけがわからないという表情でウソップが走り去った方向を見つめた。そして、サンジの横へ腰を下ろしテーブルにアゴを乗せる。
「変なウソップ~まァいつものことか」
サンジはもう一度、恐る恐るルフィに触れようとする。
「…嘘だろ? どうなってんだ?」
どんなに触れようとしても、その手はすり抜けるだけでルフィに触れることはできない。昨夜は確かに触れたのに。
物体を通り抜けるなどありえない。しかし、実際に通り抜けてしまった。決して触れられない。サンジは別次元にいる気分だった。
「頼むから…おれに気づいてくれ」
絞り出すように呟かれた言葉はルフィに届くことはなかった。
※※※
結局、どれほど調べても原因などわかるはずもなくチョッパーもお手上げ状態だった。
気持ちが沈み込むサンジはナミの提案で気分転換に買い出しへ向かうことになった。
野菜や果物が並ぶ店先でサンジは立ち止まる。
「あ、何買うか忘れた」
いつもなら考えられないミスだ。それだけルフィのことで頭が回っていなかった。
「あはは! そりゃ、あんた海へ飛び込まなきゃダメだね」
サンジの呟きを聞いて、店のおばさんは快活に笑う。
「は?なんで?」
わけのわからないことを言われ、サンジは怪訝な顔で店のおばさんを見る。
すると、おばさんは意外そうな表情でサンジを見てきた。
「おや? 知らないのかい? ここら辺りじゃ有名な言葉だよ。『忘れることに罪はなし。思い出したきゃ海へ飛び込め。忘れたきゃ山へ登れ』ってね」
「どういう意味だ?」
「そのまんまだよ。海へ飛び込むと思い出して、山へ登ると一生忘れたままでいられるって話。ここらでは忘れたモノがあると本当に海へ飛び込むのさ。ま、結果は思い出したり思い出さなかったりだから、ただの風習だろうね。私も忘れ物があったら海に飛び込むよ」
海に入った衝撃で思い出すということだろうか。
「おばちゃん!」
サンジがぼんやりと考えていると元気な声が割り込んで来た。思わず、その人物を見つめてしまう。
「これ、ください!」
「あいよ!元気だねェ」
「おう!」
にしし、と笑うルフィにサンジはなんでその笑顔を向ける相手が自分ではないのかと苦しくなった。
見ず知らずの奴には笑うのに自分とは目も合わない。
何か言ってやろうにも自分の声はルフィに届かない。
無理矢理こちらを向かせようにも、触れられない。
ルフィが悪いわけではない。わかってはいるが辛くて仕方なかった。
お金を払い、商品を受け取りながら、にこにこと笑うルフィを見つめる。
すると、何かを思い出したようにルフィの表情が突然曇った。
「おれは元気だけど、みんなが元気ないんだ」
「おや? そうなのかい」
「うん…早く元気になって欲しいな。みんな大好きだからさ。やっぱり、笑ってて欲しいんだ」
ルフィは笑顔でおばさんを見た。おばさんは感動したようにルフィの頭を撫でる。
「いいコだねェ。これも持って行きな!」
「いいの? ありがとう!」
「毎度あり~って兄ちゃんはあのコの知り合いなのかい?」
オマケを受け取り、笑顔で走り去るルフィを見送りながら、おばさんはサンジを見てきた。
「そうだな…そうだと思うんだがな。でも、あいつの言った『みんな』の中におれは含まれてないんだろうな」
「何があったか知らないけど、こっちの兄ちゃんは暗いねェ。オマケしてやるから元気出しな!」
遠慮なく肩をバシバシ叩かれ、サンジの沈んでいた気分が少しだけ浮上してくる。
「………あァ。というか、あのコって…あいつとおれは二歳しか違わねェよ」
「えっ? 幼く見えるコだね」
おばさんの素で驚いた様子にサンジは笑う。確かにルフィは実年齢よりも幼く見えると思った。
多額の賞金首だと教えたら、信じてもらえないかもしれない。
そう思うと自然と笑顔になれた。
「おや? 少しは元気出てきたみたいだね」
「まァな。適当に買うから、存分にオマケしてくれ」
「あいよ!」
自分の料理を食べていることは憶えているなら、せめてルフィに美味いものを食わせてやろうとサンジは今だけでも気分を切り替えることにした。
※※※
ログがたまるのは約三日後、それまでに島を出なければ記録が書き換えられてしまう。しかし、ルフィの状態を重く見たクルー達はしばらく、この港町に滞在することを決めた。
チョッパーは今も調べ物をしていて、町に出ていない。
一人状況のわかっていないルフィもクルー達の落ち込んだ様子に滞在を許可した。
昼間は何とか上昇した気分だったが、夜になるに連れてサンジの気分は再び沈む一方だった。
それでも、ルフィに会いたくて、甲板でこうして待っている。
「…はァ」
姿も見えない、声も届かない、触れることすら出来ないのなら、想いを伝えるにはどうしたらいい。
恋心を自覚しても伝えることが出来ないなんて、苦しいだけだった。
自分に向かうことのない笑顔なら、いっそのこと笑わないで欲しい。
「身勝手な…ホント、おれは嫌な男だな」
自己嫌悪に浸りながらサンジは明日のことを考えてみた。
もしも、このままルフィの記憶が薄れていくなら自分の作った料理さえ見えなくなるかもしれない。
そうなれば、ルフィ本人は作れないから別の奴が作るだろう。
(誰か違う奴が作った料理を食べるのか? おれの目の前で?)
目の前が暗くなる。
このまま、ずっと自分のいない世界でもルフィは笑うのか。
他の誰かが作ったメシを美味そうに食べるのか。
そんなの耐えられるはずがない。
「……うっ」
苦しそうな声に絶望に沈む思考から抜け出し、サンジは振り返る。
「なんで? ……近づけない」
そこにはルフィがいた。
いつものように海を眺めに来たのだろうが、一定の位置から船の端へ近づけずに困惑している。
それどころか、震えているようにも見えた。ひどく青ざめている。
「うー…」
唸りながらルフィは気合いで船の縁に掴まった。そして、縁に登る。
その様子にサンジは目を見張った。
「ルフィ?」
「はァ…頭痛い…でも、なんとかしなきゃな」
「おい、危ねェから降りろ」
「思い出したきゃ海に飛び込めだったっけ」
「っ! まさか!」
昼間に初めて聞いたフレーズを呟いて、ルフィは縁の上に腰掛ける。
ぎゅっと目を瞑り、ルフィは海に向かって、ゆっくりと背中から倒れた。
サンジは船から落ちていくルフィの腕を掴もうとするが、すり抜けて触れられない。
慌ててあとを追って海へ飛び込むが恐怖の方が強かった。
思わず飛び込んでしまったが自分は今、ルフィに触れられないのだ。
どうやって助ければいいのだろう。
(頼む! おれのこと一生思い出さなくてもいいから、今だけでも!)
海から引き上げる瞬間だけでも触れさせてくれ。
月明かりの薄っすら差し込む海の中へ沈んで行くルフィにサンジは祈りながら手を伸ばす。
※※※
「もう! バカ! ほんとにバカ! サンジ君がまた触れられるようになってたからいいものの…せめて、私達のいるときに試しなさいよ!」
「きっと、町のどっかで聞いたんだろうな。おれ達が記憶がどうのって話してるの聞いて試したんじゃないかな」
「それにしても無茶しすぎよ!」
気を失っているルフィの頬をナミは涙を浮かべたまま抓る。そして、その後は優しく髪の毛をタオルで拭いた。
「心臓止まるかと思いましたよ…でも、よかった」
サンジは自分の髪を拭きながら安堵のため息を吐く。
あのあと、サンジはルフィに触れることが出来た。
喜びに浸る暇もなく、ルフィを抱えたまま船に戻ると異変に気づいたクルー達が待っていた。
サンジが一連の出来事を説明するとナミは憤慨したという流れだ。
医療室の中は全員入れないのでチョッパーとサンジ、ナミと当の本人のルフィだけがいる。
他のメンバーはダイニングで様子を伺っていた。
「はァ、なんか気が抜けた…あとのことはサンジ君とチョッパーに任せるわ。他のみんなはよく聞こえなかっただろうから私が説明しとく」
「頼んだぞ、ナミ」
「ええ、おやすみなさい」
ダイニングでしばらく話したあと、他のメンバーが部屋を出て行く音が聞こえた。
本当は心配だが、大勢ついていても安静に出来ないと気を遣ったのだろう。
「で、どういうことかわかったのか」
「うん、たぶん。仮説に過ぎないんだけど」
「それでもいい。とりあえず、聞かせてくれ」
サンジはベッドに軽く腰掛けて、まだ濡れているルフィの髪を拭きながらチョッパーを見る。
「『忘れることに罪はなし。思い出したきゃ海へ飛び込め。忘れたきゃ山へ登れ』って言葉をサンジから聞いて思ったんだけど、ここら辺の地域には昔からルフィみたいな症状の人が多くいたんじゃないかな」
「何かを徹底的に忘れていく症状ってことか?」
「うん、人だったり物だったり。物忘れの原因は脳内の一部の記憶に鍵を掛けちゃうウイルスがいるんだと思う。ここら辺にしかいないウイルスにルフィは何らかの原因で罹っちゃったんだよ」
チョッパーは自分の仮説を考えながら話しているようだ。
「記憶に鍵?」
「記憶って引き出しの中に入ってるイメージで想像して欲しいんだけど。ウイルスがその引き出しに鍵をしてるんだと思う。ルフィの場合『サンジ』というキーワードの入った引き出しには全て鍵を掛けてしまって、引き出せない状態になったんだ」
「……なんて迷惑なウイルスだ」
サンジは心底嫌そうにチョッパーを見た。チョッパーも苦笑しながらサンジを見る。
「ルフィが眠るとウイルスは活動を始めて、記憶の引き出しに少しずつ鍵をしてた。そう考えるのが一番納得いくかなァ」
「そういや~寝る度におれのこと忘れるって言ってたな」
辛そうなルフィを思い出して、自然と気分が沈んだ。いつも明るいだけに辛そうにされると余計に苦しい。
「海に飛び込んだら思い出すってことは記憶を食べてしまうようなウイルスや寄生虫ではなくて、ただ鍵を掛けてるだけだと思うよ。『忘れることに罪はなし。思い出したきゃ海へ飛び込め。忘れたきゃ山へ登れ』って言葉は昔からある、この奇病の治し方だったんだよ。ウイルスは海水に弱いんだ。念の為、みんなも一回海水に浸かった方がいいかもしれない」
「風呂に海水でも入れるか…ロビンちゃん達も海に飛び込むのはちょっと気が引けるだろ」
仲間の約半数は能力者。溺れるとわかっている海へ飛び込むよりも風呂場の方が何かと安全な気がした。
「そうだな。明日にしようか。今のところ海水を怖がっているヤツもいないし」
「ん?」
「ルフィも海を怖がってたんだろ? それって、きっとウイルスが繁殖してルフィの気持ちとは裏腹な行動をさせてたハズなんだよ。普段のルフィは海を恐れたりしないから、脳内のウイルスが海水からルフィを避けるために恐怖心を与えてたんだと思う」
「なるほど。ウイルスも生き延びようと必死だったってわけか」
そういえば、波を避けたり、船の縁に近寄れなかったりしていたなと思い出し、サンジはチョッパーの話に納得して頷いた。
やはり、信頼できる船医なのだと再確認させられる。
「回避方法もわかったし、助かった。お前はサイコーの船医だな」
「う、う、う、嬉しくねェぞコノヤロー」
相変わらず褒められると照れまくってしまうチョッパーを見て、サンジは笑った。
ルフィの髪を拭き終わったサンジはタオルを適当な場所に置く。
「でも、ウイルスの成長でサンジがルフィに触れなくなったのには驚いた…そんなこともあるんだな。知らないことがたくさんある。おれはまだまだ未熟だ」
チョッパーは真剣な顔でルフィを見つめていた。
もしかしたら、すぐに治療することの出来なかったことを悔やんでいるのかもしれない。
「未熟なのは、おれもだ。未来の海賊王の為にお互い、腕を磨こうな」
「サンジ…うん! おれはもうルフィにあんな不安な顔をさせたくないんだ」
「……なんだ、お前もライバルか」
微妙な顔をするサンジの発言にチョッパーは首を傾げた。
「いや、こっちの話だ。気づいてないなら一生、気づかないでくれ」
「え? よ、よくわかんないけどわかった…そういえば『忘れたきゃ山へ登れ』って言葉もあるから海水に触れなければ完全に忘れることも可能なのかもしれない」
「まァ確かに山には海水がないからな…もしかして、結構ヤバイ状態だったのか?」
悩みながらチョッパーは席を立つ。そして、ベッドによじ登りルフィのおでこに手を当てた。
「うん…可能性の話だけど。もしも、海水に浸からないままでいたら、いつかは海水に浸かってもサンジのこと思い出せなくなってたかもしれない。ウイルスも成長するから、海水に対しての耐性が出来ることがあるんだ。おれ達は船の上で生活してるから、いつも潮風にあたってる。耐性は出来やすいと思うんだ」
「………それってさ。目を覚ましたとき、ルフィはおれのことを覚えていないってことか?」
「……可能性はある。でも触れるようになってるから……たぶん、大丈夫だと思うぞ」
チョッパーは申し訳なさそうにサンジを見てから、床に飛び降りる。
「熱もないし、朝まで起きないと思うよ。ルフィ、しばらく寝不足だったみたいだからさ」
「そうだな。あとはおれが見ておくから、チョッパーはもう寝ていいぜ? お前も色々と調べ物してたから寝不足なんだろ?」
「う、うん。ありがと、サンジ…先に寝るよ。おやすみなさい」
安心したのかチョッパーはアクビをしながら医療室を出て行った。
部屋の中はルフィの寝息だけが聞こえる。
「思い出してる…よな?」
サンジは先ほどのチョッパーの話を聞いて、不安になり思わず眠っているルフィに聞いてしまう。
確かに触れられるようになったが、自分の存在を認識したかは確認できていない。
「……う~」
寝返りをしようとして、ルフィは薄っすらと目を開けた。
心臓が異常なほど早鐘を打っている。サンジはその場から動けずにまだ眠そうなルフィを見つめた。
もしも、まだ自分のことがわからなかったら、そう思うと怖くて仕方なかった。
怯えるサンジと目が合い、ルフィはふにゃりと笑う。
「サンジ? …なにしてんの?」
「っ! おれが…わかるのか?」
「う~? うん、わかるよ~サンジだろ~」
眠そうに、だが確実にサンジの方を見て、ルフィは笑っていた。
そのことにサンジは泣きそうになってしまう。
ルフィが自分を見てくれる、声を掛けてくれる、笑い掛けてくれる。それがどれだけ幸せなことか気づいてしまった。
「ルフィ、お前のことが好きだ」
「あはは~またまた~冗談ばっか……んぅ」
思わず出てしまったサンジの本気の想いに、ルフィは冗談かと思い笑う。しかし、サンジはお構いなしにルフィの口づけた。
唇が離れた後、ぼんやりした瞳のままルフィはサンジを見つめたあと、へらりと笑う。
「そういうの~なんて言うか知ってる?」
「は?」
「セクハラっていうんだぞ~あはは」
「何言ってんだ…おい! って、もう寝てるのか」
真剣な告白をセクハラ呼ばわりされてサンジは脱力してしまった。
確かに突然すぎたかもしれないが、セクハラは言い過ぎではないだろうか。というか、そんな単語をこの男が知っていたことに驚いた方がいいのだろうか。
「ナミさんにでも吹き込まれたか」
思い当たる人物はナミぐらいだ。どんな説明をされたのか、ルフィが起きたら聞いてやろうとサンジは決意した。
終始寝ぼけていたようなので、もう一度自分の想いも伝えた方がいい気がする。
急に眠くなってサンジはチョッパーの座っていたイスに腰掛けた。
ルフィが自分を覚えていたことの安堵感から緊張が解けたのだろう。よく考えれば、サンジ自身も最近あまり眠っていない。
仮眠を取るつもりでサンジは机に突っ伏した。
※※※
「……何時だ」
変な体勢で寝入ったせいか身体が少し痛い。
サンジは身体をほぐしながらルフィの眠っているベッドを見た。
「っ!? ルフィ!」
ベッドの上には誰もいない。
サンジは慌てて、甲板に向かった。
太陽の位置からして、まだ早朝だろう。辺りを見渡すと、海を眺めているルフィを見つけた。
「ルフィ!」
「お? サンジ、おはようって、ぎゃー! 落ちる! バカ!」
ルフィは振り返り、何事もなかったかのようにサンジへ笑顔で朝の挨拶をする。
サンジが勢いのまま抱きしめれば、ルフィはバランスを崩して海に落ちそうになった。
「バカはお前だ! 出て行くなら、何か言えよ!」
「よく寝てたからさ…起こすのも悪ィかと思って。というか、なんで医療室で寝てたのかわかんなくて」
「憶えてないのか? お前、海に飛び込んだんだ」
ルフィを抱きしめたままサンジは訝しげに訊ねる。
「おれが? そう…なの? なんか、最近の記憶がぼんやりしててさ。いつの間に港に着いたんだ?」
「……そうか。おれがわからないときのことは思い出さなくてもいいかもな」
辛そうにしていたルフィを思い出し、サンジはボソリと呟いた。
「ん? まァいいか。っていうか、放してくれよ」
窮屈そうに身を捩るルフィを見て、サンジはさらに抱きしめる腕を強める。
「嫌だ」
「い、嫌だって言われても…」
困惑した声が自分の胸の辺りから聞こえるのが心地良い。
「おれはルフィ欠乏症なんだよ。しばらく補給させろ」
「なにソレ? そんな病気あるの? ないだろ~」
「ある」
はっきりと言われてルフィの方が口ごもってしまう。
「ほ、ホントに? 初めて聞いたけど…」
「おれだけが罹る病気だからな」
少しだけ力を緩めて、サンジは自分を見上げるルフィを見た。
「えー? サンジだけ? 症状はどうなんの?」
「絶望的な気分になって、料理に力が入らない。元気もなくなるし、とにかくツライ」
「サンジが料理に力入らないなんて、なんか重病だな…どうしたら、治るんだ? 手伝うぞ?」
徐々に信じてきたのかルフィの表情に心配の色が見え始める。
「ルフィがおれの目を見て、おれに話し掛けて、おれに笑いかけたら大丈夫だ」
「へ? それだけでいいのか? いつもと変わらないじゃんか」
その『いつも』の行動がなくなったから、自分は辛くて仕方なかったのだとサンジはルフィに説明したいが止めた。
「それじゃあ追加で。おれに抱きつけ」
「え? は、はーい」
手伝うと言った手前、ルフィはついついサンジに抱きついてしまう。
「一緒に風呂に入ったり、あとはキスしたり、エロいことできたらいいなァ」
「う、わわっ! 最後の方、すごいこと言ったぞ! それは変だろ!」
ルフィは思わずサンジから離れようとしたが腰を掴まれていて、離れられなかった。
困った表情で見上げるとサンジは不思議そうな顔でルフィを見ている。
「なんで? おれ、お前のこと好きだって言ったじゃん」
「じゃんって言われても…あ、あれはロビンと間違えたんじゃないのか?」
「ということは憶えてるんだな」
「うっ…だ、だってサンジがおれを好きなんておかしいと思って」
誘導尋問にハマった様な気分でルフィはサンジから目を逸らした。
「おかしくはないだろ。名指しで告白してんのに、なんでロビンちゃんが出てくるんだよ」
「髪の毛の色が同じだから…その、サンジが寝ぼけたのかと」
「寝ぼけてたのはお前だろうが…真剣に告白したのにセクハラ呼ばわりされたんだぞ?」
「っ!」
サンジはルフィのアゴを片手で掴み、唇を親指の腹で撫でる。
何を思い出したのかルフィは真っ赤になってしまった。
「相手の意思に反して不快や不安な状態に追い込む性的な言葉や行為がセクハラって意味なんだけど? おれはお前にセクハラをしたのか?」
「し、したの! なんで、そんなに強気なんだよ~」
ルフィは唇を撫でる指を避けようとするが、うまく避けれない。
軽く拘束されているようで実は身動きが取れないことに、今さらながら気がついた。
「不快や不安になってるようには見えなかったからさ」
「よく言うよ~セクハラだったの! …というか、放して。それと、やらしい感じでおれに触るな!」
「へェ? この状態で生意気だな…もう一回、してやろうか?」
サンジにニヤリと笑われてルフィは背筋がゾクッとする。
より抵抗を強めるが、もちろん逃げられない。
「だ、だ、ダメ! うー、どうやったらこの手は放れるんだ~」
「さァな~精々、頑張って外せよ? 早く逃げないとキスしちゃうぜェ?」
「うわっセクハラっぽい! その言い方すごくセクハラっぽいぞ!? はーなーせー!」
ルフィはなんとか体勢を反対に変えて、サンジに背を向けたが腹の辺りを両手で掴まれていて、そこから動けなかった。
「あはは、楽しいな」
「楽しいのはサンジだけだろ! しかも、くすぐったい!」
「なァ、ルフィ」
突然、聞こえた真面目な声にルフィはビクッと肩を震わせ、抵抗を止める。
振り返ろうとすると後ろから抱きしめられた。
「な、に?」
「困ると思ってフザけてたけど…真剣にお前のこと好きだからな。おれの気持ちを冗談で終わらせるなよ?」
「えっ…う…急に真面目になられても」
「やっぱり困るか?」
「……うん」
相手が男とか仲間だとか、そういう問題以前に恋愛に疎いルフィはかなり困る話題だ。
どう反応していいか本当にわからない。だって、サンジのことが嫌いなわけではないから。
「なんで…急に、告白したんだ?」
「お前がイタイくらい自覚させてくれたから」
「おれが……?」
サンジのことを忘れていた頃の記憶がないルフィには突然すぎる告白だった。
答えの糸口を掴みたくて、なぜ急に想いを伝えてきたのか聞いてみたが尚更わからなくなりそうだ。
「……例えばの話だけどな」
「ん?」
「おれの声が聞こえなくなったらイヤか?」
「え?」
「姿が見えなくなったらイヤか?」
「何言ってんだよ…イヤに決まってるだろ?」
ルフィはその状況を想像してみて、驚くほど心が痛んだ。
まるで実際に体験したような感覚にルフィの顔が泣きそうに歪む。
サンジからルフィの表情は見えないが、落ち込んだのは声音でわかった。
大丈夫だというように少し力を強めて抱きしめる。
「おれだって、ルフィに気づかれないのはイヤなんだよ。もう、耐えられない」
「サンジ? おれはサンジのこと気づいてるぞ?」
「あァ、わかってるよ。つまり、今さらお前のいない人生を歩むのはイヤだって気づいたんだよ…思ったが吉日に近い心境だな。要は勢いだ」
「勢い…でも、そんなもんなのかな。おれもサンジのこと真剣に考えてみる」
腕が少し緩んだのでルフィは身体ごと振り返り、サンジを見上げて、笑った。それを見てサンジも笑う。
「それじゃあ考えてくれ。今すぐに」
「こんな至近距離じゃ考えられないって…」
「放してやってもいいぜ? 条件はあるが、な」
「なに?」
ルフィは不思議そうな表情でサンジを見上げた。
「おれの名前、呼んで?」
「…サンジ」
「足りない」
今まで呼んでいなかったことをよく憶えていないルフィにはわからないが、サンジはルフィに名前を呼ばれる心地良さに自然と笑んだ。
変なことを言うサンジを不思議に思いながら、ルフィはサンジの名前を呼ぶ。しかし、即座に足りないと言われてしまった。
「むー、なんか今日のサンジはワガママだな~」
「目を見て、名前を呼んでくれ」
「わかったよ~。サンジ、サンジ、サンジ…サンジ、サン…ジ」
ルフィは徐々に恥ずかしくなってくる。
なんていう顔でサンジは自分のことを見ているんだろう。
愛しむような、しあわせそうな、そんな顔で見られてまともに名前なんて呼べない。
顔が熱い、体温が急上昇してきた。
これ以上、呼んでいたら心臓が壊れてしまうかもしれない。
ただ、名前を呼んでいるだけなのに何で、こんな風になってしまうのだろう。
「ルフィ、足りない」
「も、もういいだろ?」
「仕方ねェな。で、逃げないのか?」
「なん…っ!?」
何で、と聞く間もなくルフィは再びキスをされた。動揺のあまり抵抗するところまで頭が回らない。
唇を離すとルフィは真っ赤になっていた。サンジは楽しそうに笑う。
「逃げなきゃキスするって、さっき言っただろ?」
「ふ、フザけたいのか真剣にしたいのかハッキリしろよ! からかってんのか!?」
確かにそう言ってはいたが冗談だと思っていたし、放してくれると言っていたので油断していた。
ルフィは赤い顔のままサンジを睨む。
「からかってねェよ。ま、どっちもかなァ。フザけたいし、たまには真剣に愛し合いたいもんじゃないか?」
「聞かれても困るって!」
「真剣だろうがフザけてようが、ルフィがおれを構ってくれたら、それでいいんだよ」
物凄く恥ずかしいことを言われている気がして、ルフィの心臓はうるさいほどだった。
ルフィは思わず、サンジから顔を逸らす。
サンジの言葉は恥ずかしいだけじゃなくて嬉しかった。一緒にいて楽しい。
ちらりと見ると、優しい表情でルフィを見ていた。
「な、なァ? 付き合ってもいいからさ…」
「……本気か? 今さら、取り消せねェぞ?」
サンジは驚いたあと、物凄く真剣な顔で問うとルフィはコクリと頷く。
「うん…だから、その…チューしたりすんのは、なしにしないか?」
「それじゃあ仲間と変わらん! ……フザけてんのか?」
「え!? フザけてないって!」
突如、低くなったサンジの声音にルフィは怯えてしまう。
「そういう冗談は面白くねェぞ?」
「冗談でもないって!」
「何でイヤなんだ?」
「イヤっていうか…変じゃないか? おれとサンジがチューすんの」
「変じゃない」
相変わらずの即答ぶりに、ルフィは自分が間違っているような錯覚に陥る。
そして、頭を振ってサンジを不安そうに見た。
「いやいや、やっぱり変だって。えっと…チューとかは女じゃダメなのか?」
「性欲処理は他でしろってことか?すごいこと思いつくヤツだな…ダメだ、女性よりルフィがいい。それに、恋人はお前なのに他の女性に手を出してたら、おれ最低だろ。しかも、おれの病気はお前じゃないと治せない」
「病気?」
何だったかなとルフィは首を傾げる。するとサンジはルフィを軽く抱きしめてきた。
「ルフィ欠乏症」
「そ、うだった…一緒にいるだけじゃ治らないのか?」
「治らない。触れさせてくれないと治らない」
言葉と共にサンジはルフィの身体を触る。
「ふっ…普通に触れよ!」
背筋がゾクゾクするような、いやらしい触られ方にルフィは真っ赤になって、自分の身体を這うサンジの手を掴んだ。
「快楽を知らないから怖いだけだって、ちゃんと教えてやるから」
「……おれはわかんないままでいいや」
爽やかな笑顔で言われても、簡単に納得できる内容ではない。
ルフィは軽く目を逸らして、応えた。
「大丈夫。ゆっくり知ればいい。無理強いはしない……と思う」
「自信なさそうに言うなよ~大丈夫じゃないだろ~心臓が壊れる」
「なんだ、ドキドキしてんのか。かわいいなァ」
嬉しそうに笑うサンジに余計に鼓動が速まる感覚がする。
壊れそうなほど、ルフィの鼓動はずっと速い。原因はサンジなのだから、離れなければ普段の速さには戻らないだろう。
でも、離れがたいような不思議な気分だ。
自分がどうしたいのかよくわからなくてルフィは照れ隠しも含めてサンジを睨んだ。
「かわいくない! ドキドキして悪いか!」
「いや、すげェ嬉しい。なんでドキドキするのかは、ゆっくり考えればいい。とりあえず、付き合うってのは取り消さないから、おれがルフィの恋人だな」
「……うん。サンジはおれの恋人だ」
あまりにサンジが幸せそうに笑っているので、ルフィは否定の言葉が浮かばなかった。
それどころか、自然と顔が赤くなって困る。
「さて、朝メシでも作ろうかな」
少し太陽が高くなり、そろそろクルー達も起き出す頃だ。
サンジはルフィの頭を撫でてから、キッチンに向かった。ルフィは笑顔でサンジの横を歩く。
「おれ、ハラ減った~」
「恋人特典で山盛りにしてやるよ」
「やったァ!」
いつも山盛りにしているが愛情の度合いが以前とはまるで違うのだ。
しばらくは存分に甘やかしてやろう。
餌付けから初めることにしたサンジは今日、大量の肉を買いに行こうと思った。
「サンジ! 病気、早く治ればいいな」
「そうだな……正直、一緒にいればいるほど悪化しそうだけどな」
人間の欲は限界がないんだろうなとサンジは苦笑する。
後半の言葉は聞こえなかったのか、ルフィは首を傾げてサンジを見つめた。
「サンジ、おれ手伝う」
「ん?」
「恋人だから手伝いたい」
にかっと笑われて、サンジは胸が高鳴る。今まで手を出さずにいた自分を褒めてやりたい気分だ。
「かっわいいな~」
「え? …ふっ」
サンジにアゴを掴まれ、キョトンとしているうちにルフィはまた口づけされてしまう。
そして、前回同様真っ赤な顔でルフィは睨んできた。
「う~…バカ! 何回するんだ!」
「三回。それに、これからもまだまだするつもり」
「もう! バカ…でも、サンジのこと好きだぞ?」
ほんのりと赤い顔で上目遣いに告白され、サンジの中で理性の糸が切れそうになる。
それに気づかず、ルフィは恥ずかしそうに視線を彷徨わせていた。
「そうか、お前は朝から襲われたいのか」
にこりと笑ってサンジは物騒なことを言う。
そのセリフに驚いて、ルフィはサンジから少し距離を取った。
「どういうこと!? サンジがよくわかんないぞ!」
「嬉しいこと言い過ぎなんだよ。ま、今日ぐらい我慢しようかな」
「いつも我慢してくれよ」
「あはは、無理無理。でも、手伝うっつっても簡単なことじゃないとな。よし、お前は野菜を洗ってくれ。何ならサラダはお前に任せようかな」
落としても割れない物を考えてサンジはサラダ用の野菜を洗ってもらうことにした。
ドレッシングは自分が作るとして、野菜を切るくらいなら任せても大丈夫だろうか。
そんなことを考えるのは本当に楽しい。
一緒に何かが出来るというのは心躍るものなのだとサンジは笑った。
「了解! えへへ、頑張るぞ」
「ははっ、洗剤で洗うなよ」
気合いを入れていたルフィはギクリとした表情でサンジを見上げる。
「そ、そんなことしないって」
「どうだかな~? それにお前、手を切りそうで怖いな」
「そうか?」
「野菜、洗い終わったら教えてくれ。一緒に作ろう」
「うん!」
簡単なサラダを不器用なルフィと一緒に作るなど時間がかかるだけだが、サンジはそれも楽しそうだと心から思った。
ルフィといると些細なことが楽しくて仕方ない。きっと些細なことで嫉妬もするだろうけど。
サンジは自分の世界に、やっと光を取り戻した気分だった。
ルフィが見てくれない自分はとても脆い。でも、ルフィが見ていてくれれば、どこまでも強くなれるはずだ。
楽しそうに笑いながら二人はキッチンに入った。
その日の朝は一流コックが作ったにしては野菜の形がバラバラなサラダが朝食の一品を彩ったようだ。
*END*